Feb 05, 2011
自分だけの名刺を作成する
名刺は一度にかなりの枚数をするので、かなりのでない限り、一度作ったものを満たさなければなりません。特に仕事関係のことがないのは、イメージを膨らませ、洗練されたにしたり、艶やかにしたり、あるいは洗練されたルートのかを常に考えている。自分らしさの象徴になることもあるの名刺だ。制作時に気を使っています。私の年賀状は子供の写真入り年賀状です。知識もあまりないのに、手作りの家庭で印刷している。お気に入りのデザインで作成し、値段も安いのでずっとそうしてきた。しかし、来年の年賀状は、年賀状印刷を最初にお願いした。理由は簡単である。今回の写真は息子シチゴサンウイ袴姿、年賀状の印刷をお願いするのが、綺麗に完成だと思ったからだ。最初にお願いした年賀状の印刷にはどのように完成くるか期待される。
「安心院ブドウ」で知られる宇佐市安心院町で22日、デラウエアが初出荷された。同町中山の安部仲雄さん(57)のハウスに、ミス卑弥呼の携帯電話ショップ勤務、大橋良子さん(26)や「しろばと保育園」の園児ら14人が入り、たわわな実を丁寧にもいだ。
JAおおいた安心院町地域本部によると、4、5月の低温や日照不足で育ちが遅く、手厚く加温した結果、粒もそろい、甘く仕上がったという。町内175農家が約129ヘクタールで栽培。例年並みの収穫1200トンを見込む。
安心院ブドウは、ピオーネ、巨峰など10月まで収穫が続く。北九州市中心に九州一円にも出荷。デラウエアは初物として人気が高い。【大漉実知朗】
6月23日朝刊
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竹田市荻町で来年度農業参入する東京都千代田区のIT企業「アクティス」(東野義明社長)が22日、市と進出協定を結んだ。IT活用で農地の温湿度情報を分析。「経験・感覚」の農業を脱却し、安定した高効率農作業を目指す。近く農業生産法人を設立する。12年度は50アールでトマト19トン、ホウレンソウなど露地野菜1トンを生産し、売り上げ目標は500万円。15年度には1ヘクタール、トマト95トン、露地野菜3トン、3000万円にしたいという。首藤勝次市長は「未知の可能性を感じる」と歓迎の意を表した。
89年設立。携帯電話のソフト開発などで11年3月期の売り上げは42億8000万円。【佐野優】
6月23日朝刊
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<僕(わん)の沖縄戦>
◆竹田に疎開の島人(しまんちゅ)・仲宗根さん
◇生死かけ、九州へ船出
太平洋戦争末期の1945年6月23日、国内で唯一、住民を巻き込む地上での惨禍となった沖縄戦の組織的戦闘終了から66年がたった。県内には沖縄から疎開し、現在も暮らす人がいる。その一人、大分市上宗方、病院職員、仲宗根玄治さん(73)は当時竹田市に疎開。父親は沖縄戦で亡くなった。「恨みを言っても始まらない。とにかく生きるのに精いっぱいだった」と振り返る。【土本匡孝】
「初めて空襲警報を聞いたのは44年7月初めだった」。当時那覇市中心部の松山国民学校1年だった仲宗根さんはその後連日、自宅近くの港から日本軍が上陸して来たのを覚えている。今まで見た余暇で市街地観光する兵士と違い、完全武装した将校らの「まなじりを決した」行進に、子どもながらもこの南の島に戦争が近付いているのを感じた。
続々と沖縄に集結する兵士のため、学校は兵舎に。間もなく松山国民学校も閉校した。空を見上げれば、日本軍の戦闘機が黒煙を上げながら飛んでいた。被弾し帰還したようだった。「戦争だな」と思いながらも、まだ緊迫感は無かった。
サイパン玉砕に伴い政府は同月7日、南西諸島の老幼女性、学童の集団疎開を決定。しかし戦争の緊迫感が乏しく誰も行こうとしない。県庁幹部だった父玄広さん(当時43歳)は「ここはいずれ戦場になる。他の人を行かせるため、主だった家族は先頭で行く義務がある」と説得した。小さかった仲宗根さんはこれが父や沖縄との最期の別れになるとは思わなかった。
7月22日ごろ、母静さん(同39歳)、妹紘子さん(同2歳)と軍艦マーチに送られ、鹿児島に向かう疎開船に乗った。「護衛艦付きで30隻ほどの船団を組んだようだ。300〜400人がすし詰めだった」。病死者が発生し、台風で船団は散り散りになったが、8月1日ごろ、何とか鹿児島市に入港した。同月22日、学童疎開船「対馬丸」は米潜水艦に撃沈され、1400人以上が亡くなった。疎開は日本軍配備で悪化した食糧事情を改善する目的もあり、約7万人が九州と台湾に逃れたが、他にも攻撃を受けた船もあり、生死をかけたものだった。
6月23日朝刊
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